プロボクサー宮原鰯の伝説~1勝4敗の最高傑作~

2019/03/09
プロボクサー宮原鰯の伝説~1勝4敗の最高傑作~

プロボクサー宮原鰯の伝説~1勝4敗の最高傑作~

 

※この物語は概ねノンフィクションです。

 

 客席から沸き起こった歓声が後楽園ホールいっぱいに広がった。降り注ぐ光に照らされたリングの上で、ふたりの男が激闘を繰り広げている。
 1ラウンド目は赤コーナー右ボクサーファイターの選手が早速ダウンした。2ラウンド目にはそれをすぐに奪い返すも、4ラウンド目には再びダウン。二度のダウンを取られてしまう。序盤から激戦だった。
 8ラウンド2分49秒、テクニカルノックアウト。
 赤コーナー家住勝彦が勝利し、暫定王座を手に入れた。
 2009年夏、第30代OPBF東洋太平洋ライトフライ級チャンピンの誕生であり、レイスポーツボクシングジム初の王者である。

 

 その後、家住勝彦は王座統一戦を含む二度の防衛を達成した。
 ボクシングファンからすれば、レイスポーツといえばチャンプ家住勝彦だろう。大物デザイナーに乞われて映画にも出演した。
 十年経った今でも、ファンやご贔屓のお客様に「家住」のお話をいただく。
 確かに、レイスポーツ会長佐藤達雄は言う。
「ジムに入ってきたときから、こいつはチャンピオンになる素質があった」
 だが、今やボクシング歴半世紀にもなろうという佐藤達雄はこうも言う。
「俺の最高傑作は家住じゃない。鰯(いわし)だ」と。

 

 宮原鰯。
 本名、宮原正育。
 プロボクサー。
 生涯戦績1勝4敗。
 もちろん、熱心なボクシングファンだってその名を知らない。
 なにせ、魚ヘンに弱いである。
 強さを競うプロボクシングの世界で、この名である。
 それにもかかわらず、世界チャンピオン小林光二、日本チャンピオン大和田正春、東洋太平洋チャンピオン家住勝彦を育てたトレーナー佐藤達雄は宮原鰯を自身の最高傑作と呼ぶ。

 

「鰯がプロになりたいだって?」
 レイスポーツに佐藤の声が響き渡った。
「無理に決まってんだろ!」
 即答だった。
 普段は普通のサラリーマン。ボクシング好きが高じてレイスポーツに入会して五年ほどが経っている。特に運動がしたいであるとか、健康を維持したいだとか、または強くなりたいだとか、そういった目的意識があってジムに通っていたわけではない。
 宮原鰯はただただボクシングが好きだったのだ。
 しかし、運動神経はない。ボクサーとしてのセンスもない。だが、実直で真面目な人柄そのままに、こつこつと練習に通い続けていた。
 会長佐藤が彼につけたあだ名が、鰯。
「死んだ魚みたいな目をしてる」
 それが理由だった。酷い話であるし、仲の良いことである。
 そんな宮原鰯が突然、プロボクサーになりたいと申し出た。
 当時の規定では、プロテスト受験の年齢上限が32歳であった。33歳になってしまうと、プロボクサーにはなれない。
 このとき、宮原鰯32歳。
 33歳の誕生日まで、あと半年。
「無理に決まってんだろ!」
 チーフはじめトレーナーみんながみんなお手上げな難題であり、会長佐藤に相談した途端にこれであった。
 五年も通っているのに、残り半年になっていまさらである。
 しかも、あの鰯が、である。
 当然、不可能に思われた。

 

 だが、佐藤はレイスポーツを立ち上げるにあたって目標があった。
 会員さんや選手、ひとりひとりの夢に寄り添おうと。
 長年プロボクシングに携わり、トレーナーとして3000人以上を指導してきた。この技術を以てしてみなさんの夢をかなえ、ボクシングを盛り上げていこうと。
 不可能を可能にしたいという意地もあったのだろう。
 だから、
「無理に決まってんだろ!」
 と言いながらも、佐藤達雄は宮原鰯に向き合った。
「言われたことはなんでもやるな?」
「はい」
「週7日、練習に来い」
「でも」
「四の五の言うな」
「はい」
 こうして、過酷にして濃密な半年が始まった。

 

 佐藤の指導は単純明快だった。
 反復に次ぐ反復である。
 同じことを何ラウンドも何ラウンドもただただひたすら繰り返させた。
 運動神経もない、センスもない、宮原鰯だったが、彼には明確にひとつ、ボクサーとして最も大切なものが備わっていた。
 努力。
 努力できること。
 ボクシングは過酷なスポーツだ。どんなに才能があったって、努力することなしに開花したりはしない。名チャンピオンもデビュー戦の選手も、みんな努力を重ねている。
 その点、宮原鰯は努力した。
 徹底的に努力した。
 サラリーマンとして働きながら、毎日午後9時半から2時間いっぱい練習し続けた。
 時には佐藤に怒鳴られたこともある。
 いや、常に怒鳴られ続けていたのかもしれない。
 本人曰く、
「ただただ大変だったことしか覚えてないです」
 とのこと。

 

 だが、結果は明白だった。
 プロテストは概ね月に1回行われる。
 規定の33歳までに、宮原鰯は2回受験した。もちろん、1回目は不合格。
 期限ぎりぎり2回目のプロテスト。彼は見事に合格し、プロボクサーライセンスを取得した。
 彼を知る人はみながみな驚いた。
 あの、鰯が、プロに?
 しかし、佐藤達雄と宮原鰯。
 ふたりの努力に成せぬ夢ではなかったのだ。

 

 残念ながらデビュー戦は負けてしまったが、2戦目にして勝利。
「全敗じゃなくなってほっとした」
 なんて謙虚で情けない感想を今でも言う。それでこそ宮原鰯らしい。
 1勝4敗。
 世間一般や、ファンからしても、記憶に残らない戦績の選手。本人だって訊かれない限りは言わないのだという。
 だが、彼は誇っていいはずだ。
 自分の努力で掴み取った、人生において華やかな特別があることを。
 そして、佐藤達雄に「最高傑作」と言わしめた事実を。

 

 私たちレイスポーツボクシングジムもまた、誇りにしている。
 無冠無名ながら努力を貫いた素晴らしいボクサー、宮原鰯を。

 

 ~完~